瀬谷耕作先生と詩


瀬谷耕作先生,60歳頃
瀬谷耕作先生,70歳ごろ

  大正12年福島県西白河郡三神村の

 小作農家に生まれました。

 両親は先に子供たち4人を亡くしており 

 30代後半になっていました。

 第一子は夭折し 二子 三子 四子は 

 幼くしはしかで一挙に亡くなっています。

 子育てに自信を無くしていた父親は 必死に

 近郷の社寺を祈り歩き、子供を守ろうと

 産後の母親に 捨て子を演じさせたりしました。

   1歳9か月の秋、父親も肺病で他界し

            母ひとり子ひとりになりました。

 

 高等小学校を卒業後 独学、検定で小.中.高校教師

資格をとり教員になりました

広辞苑一冊を食べてしまったとも言われるほどの

勉強家でもあったそうです。

   

 厳しく澄みやかな大自然と、詩人たちの住む良き土壌に

恵まれていました。

詩人草野心平 山村暮鳥 三野混沌 寺 田弘大滝清雄 

三谷晃一、斎藤庸一、他の方々住んでいました。 

瀬谷耕作も詩作を志します。

  

 若かりし頃は体が弱かったようです。 

ろうのように痩せていました(本人の言)(懐かしのアルバム)が、

強い精神の持ち主でした。

猪苗代高校に勤めていたころ同僚の先生と共に

荘厳な歌「猪苗代高校生徒会歌」を作詞作曲しています。

  

 昭和32年茨城県に転入し、温暖な気候のせいもあってか

体調をとりもどしました

私は昭和33年太田二高に入学した時、先生に出会いました。

まだ高度成長期以前の古き良き時代でした。 

戦後の復興期で、まだ田舎は文化も立ち遅れていて、

なあなあ時代でもありました。

  

 始めてのホームルームでの言葉が特に印象的でした。

こんなことを言う先生は初めてでしたからびっくりしたのを覚えています。

 

  " 「父兄がものをを届けてくれたりすることがあるれど、

   そういうことは決してしないように…。 

   僕はうけとらない。 

   物は心を惑わせることがあるから です。

   いつも心を澄ましていることが大切なのです」      "   

 

 太田二高に赴任された頃(35歳位)は 

色白でちょっとふっくらしていました。 

奥まった目は澄んで、媚びない野鳥の目のようでした。

素朴な風体ながら聖賢の心と 詩人の情熱と併せ持っておられます。

渾名は白豚、神様。

  

 毎朝のホームルームでのなにげないお話も清々しく心に響きました。

   田舎の重苦しい空に爽やかな自由な風が

       吹きぬけていくような心地がします。 

           

 たびたび、詩や歌やエッセイなどを,藁半紙に

ガリ版刷で作ってきては紹介して下さいました。 

手書きなのはもちろん、クラス52名分

1枚1枚 刷るのはそうとう大変だったと思います。

  

 高村光太郎、萩原朔太郎、山村暮鳥、草野心平、宮沢賢治、

  中原中也 坂村真民 その他沢山の詩を 

   ちょっと福島訛りのある よく通る声で 朗読してくれました。

   

  先生の指導でみんなで歌もうたいました。     

「野ばら」「夏の思い出」など懐かしい歌から  民謡「会津磐梯山」、

 ” 都ぞ弥生の雲紫に  花の香漂う宴のむしろ~♪♪ ”

            など 潔い「北海道大学寮歌」まで       

   教室の窓からよく歌声が聞こえていたことと思います。

                      周りは穏やかな田園風景でした。

  

   読んでくださったたエッセイ、 ボーボワール「人間について」より

 

       " ここに一人の子供が木に登ろうとしています。

   親切でおせっかいの大人が、その子供を地面から上げて

   一本の枝に上がらせてやります。子供はがっかりします。

   子供は木の上にいることだけを欲したばかりでなく、

   自分で登ることも欲したのであります。

   これによってた直ちに分かるように、他人が、

   われわれになにごとか期待しており、

   かつその期待しているものを確実に与える場合以外には、

   われわれは他人のために何事もできないのであります

                

     先生は私たちをいつも静かに見守って下さっていました。

      ” 世の汚れになじまず清く生きよ”  と。 

            

   

  

「瀬谷耕作の人と作品」 大滝清雄氏(日本現代詩文庫より)

 

  ” 瀬谷の仕事の 叙事詩と抒情詩 硬軟二つの流れは

  もちろん別のものではなく、これを一貫して流れているのは、

  瀬谷耕作の人間に対し、あるいは広く生物に対する

   厚く繊細な愛情のようである。

        すなわち、その愛情の発露が、あるときは主として

         叙事詩の中で、  厳しい批判精神となって火花を散らし、

          あるときは、  抒情的発想の作品の中で涙を噛み、

         あるいは、 ひたすらな祈りとなっている ”                                

 

 

大正12年  福島県西白河郡三神村に 誕生

  14年  父忠次郎 死去

昭和13年  小学校高等科卒業、三神村産業組合給仕

  16年  小学校の代用教員となる その後猪苗代高校 他勤務

  31年  母 キク死去

  32年  茨城県常陸太田市に転入 太田二高教諭   

  33年  詩集「牛」出版

  34年  長女めぐみ死去

  39年  水戸一高教諭に転任 水戸市に転居

  44年  詩集「井戸の中の魚」出版

  50年  詩集一丁仏異聞」出版(第一回茨城県文学賞)

  54年  詩集「稲虫送り歌」出版(第五回地球賞)

  57年  詩集「水を踏む」出版 孫和久死去

  59年  水戸一高教諭を退職

  60年  詩集「奥州浅川騒動」出版(第十九回日本詩人クラブ賞)

  62年  詩集「童子帰元」出版

  64年  恩師松坂采良の遺稿歌集「采良抄」編集

平成 2年  叙事詩集「勘十郎堀」出版(第9回現代詩人賞候補)

   3年  「脱いでいく」出版

   6年  日本現代詩文庫「瀬谷耕作詩集」出版

   7年  溝口章氏「戦史・亡父軍隊手牒考」出版(解説瀬谷耕作

   8年  叙事詩集「ムカデ高知」出版(第15回現代詩人賞候補)

  14年  文集「座ったままの目の高さ」出版 

  16年  詩集「寿木」出版

 

    『黒』『山の樹』『龍』『白亜紀』同人

       日本文芸家協会会員

   

 いろいろな社会運動にも熱心に力をいれておられました。

  昭和58年「勤務評定反対闘争」 

  昭和60年「安保反対闘争」

  平成2年 「ゴルフ場増設反対運動」

  晩年  「憲法9条を守る会」

   「戦争に反対する詩人の会」(詩集 反戦の声こえ)

   「里山をまもる会」(水戸・ゴルフ場開発阻止)

   「水戸市の自然と水を守る会」  他…

                     

 

   瀬谷耕作先生は 平成26年5月16日、逝去されました。

                  90歳でした。

  

       先生は 徹底して潔癖な生活をしておられました。

  生涯病弱でしたがそのお姿は孤高で壮絶でした。

  いつも自然態で   妙にほっこりさせてくれるセンセイ

  でもありました。 

 

 

         もうすぐ先生の一周忌になります

            平成27年年4月21日 記す